文化・芸術

2021年1月15日 (金)

旭堂南龍さんによる講談「長島軍記 ~伊勢長島一向一揆 450年~」

 私が旭堂南龍さんの講談「荒木又右衛門」を旧崇広堂でお聴きしたのは十数年前のことになりますが、昨年(2020年)末から同氏による桑名市PR動画「長島軍記 ~伊勢長島一向一揆 450年~」がYouTubeで配信開始との新聞記事を見ましたので、ぜひ視聴したいと思い、桑名市のホームページから検索してみました。

 それが次のYouTube動画です。

【旭堂南龍さん↓】

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 一向宗門徒が極悪の殺戮軍団である織田信長軍を二度にわたって撃退したために、一層激烈な攻撃を受けたことが目に見えるように語られています。このことは天正伊賀の乱にも共通するものがあり、感情移入してしまいました。素晴らしい講談だと思います。

 ※長島一向一揆

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2021年1月 3日 (日)

伊賀市「柘植(つげ)のホント!かるた」

 先日(2020.12.20)大津へ行くのに、JR柘植駅を利用した際、跨線橋の通路にこの「柘植のホント!かるた」が掲示されているのを見つけました。

 郷土市民グループ「ランプの会」(20203月に解散)と柘植地域まちづくり協議会が共同で作成したものだそうで、徳川家康の「伊賀越え」に関わりがある徳永寺、幼少期を柘植で過ごした作家 横光利一など興味深い題材が扱われています。

 その中でも、私が注目したのは「倭姫命が天照大神の鎮座の地を求めて巡行したとき、柘植に2年間逗留」とか、「源義経が上洛する際、倉部川沿いの風森神社で戦勝祈願」といったもの。

 こうした題材をもとに地域の魅力が高まればいいなと思います。

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2020年11月18日 (水)

熊野から運んだ木材も使用して再建された伊賀上野城

 現在の伊賀上野城天守閣は、衆議院議員であった川崎克氏が支援者の協力を得ながら私財を投じ 木造で再建したもので、昭和10年(1935年)に竣工しています。

 この復興天守閣に熊野の木材が使用されたことを知ったのは、ずいぶん前に熊野市木本町にある紀南ツアーデザインセンターを訪れたときのこと。

 同センターは、紀南地域を代表する林業家 奥川吉三郎(おくがわきさぶろう)家 私邸の寄贈を受けて設置されたもので、この中に設けられた奥川吉三郎邸 資料室の展示のひとつが「伊賀上野城の再建への木材提供についての資料」です。

【同資料室に掲示された説明文↓】

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 この説明文に、奥川吉三郎氏が熊野の地から伊賀上野城建設のための木材を提供したことが記載されています。

 その木材の運搬方法については、船と鉄道でと記述されていおり、熊野から紀伊半島の東側か西側を回って運ばれたのでしょう(四日市港に陸揚げし貨物列車で上野町駅(現在の上野市駅)まで運んだとする論文が見られます)。

 このように、伊賀上野城の再建は川崎克氏の尽力があってこそですが、同氏の人徳により同じ三重県内の熊野からも支援を受けていることを銘記しておく必要があると感じています。

【建設途上の伊賀上野城(昭和9年(1934年)2月)〔出典:図説 伊賀の歴史〈下巻〉〕↓】

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2020年10月26日 (月)

上野天神祭にちなむ和菓子(伊賀市・いせや)

 残念ながら、今年(2020年)の上野天神祭は、新型コロナウイルスの影響で だんじり巡行と鬼行列は中止となり、だんじりや鬼面の展示という形になりました。

 それでも、昨日(2020.10.25)はそれなりの人出があり、お土産となる和菓子の店はかなりの賑わい。そのうちのひとつが菅原神社(上野天神宮)のすぐ東にある「いせや」です。

 この店では、毎年 上野天神祭の時期に鬼行列のメインキャストと言うべき「ひょろつき鬼」の和菓子を販売しており、これを贈答用と自宅用に買ってきました。

 伊賀では「おしもん」と言って、かつては鯛などの形をしたものが婚礼の引き出物としてよく使われていました。このおしもんに「ひょろつき鬼」を描いた和菓子は情趣豊かで、上野天神祭の時期の風物になっていると思います。

 昔から祭りの日には自宅で伊賀牛のすき焼きというのが定番で、うちの昨日のメニューはやはり伊賀肉の駒井で買ってきた伊賀牛のすき焼きでした。すき焼きも伊賀の風物詩と言えるかもしれません。

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2020年9月14日 (月)

ビデオカメラ用に手ブレを抑えるジンバルを購入(俳聖殿 他 撮影)

 動画を撮るのにスマホやカメラでなくビデオカメラ(Panasonic HC-V480MS)を使っているのですが、腕が悪くて手ブレ補正がついているのにブレブレの動画ばかりになっています。

 これを少しでも解消しようと、ジンバル(スタビライザーと表現しているものもあります)のMOZA Mini-Pというのを買ってみました。Amazonの数量限定タイムセールで税込21,233円でした。

 ジンバル(gimbal)とは1つの軸を中心に物体を回転させる回転台のことで、動画を撮影するときに手ブレを抑制する機材を意味するようです。

 これにビデオカメラを取り付けるのがなかなかむずかしく(ビデオカメラは三脚取り付け穴が前の方にあり、そのままジンバルに付けるとビデオカメラの後ろがジンバルのアームに当たるため、取り付け穴を後部へもってくるためのブラケットという器具が必要になりました)、しかも取り付け後のバランス調整も容易ではなさそうなので、いったいどれぐらい時間と手間がかかるのかと不安に思っていましたが、何とか設定を完了。

 次に、MOZA Masterというスマホアプリでモーター設定のオートチューニングを行い、ようやく使える状態までもってきました。

 取りあえず試しに伊賀市上野丸之内にある上野公園へ行って、松尾芭蕉の旅姿を象った俳聖殿や、大阪城と並んで日本一の高さを誇る伊賀上野城高石垣を撮影してみたところ、まずまず手ブレが防げているようなので、今後はこれをしっかり使っていこうと思っています。

【ジンバルを使って撮影した俳聖殿などのYouTube動画↓】

【ビデオカメラを取り付けたジンバル MOZA Mini-P↓】

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2020年8月17日 (月)

淀川遡航終点(三重県伊賀市 長田川の畔)

 伊賀地域(伊賀市・名張市)の水は、99%以上が木津川、淀川を通じて大阪湾へ流れます。

 この水の流れを生かして、かつて大阪・京都と結ぶ水運が行われていた時代があり、伊賀から米・茶など、大阪から伊賀へ塩が運ばれていたようです。

 それを今に伝えるのが、伊賀市・長田川の畔にある淀川遡航(よどがわそこう)終点碑。豊国工業 三重工場さんの横にあります。※hana@kuroさんのブログ記事に刺激を受けて、現地へ行ってみました。

 京都の商人 角倉(すみのくら)家により、底が平たく浅い高瀬舟を利用してこの地点まで通船が行われたのは19世紀前半のこと。1854年の安政伊賀上野地震の際に岩倉峡に落石があり、運航不能となったため、終焉を迎えたものです。

 現代において川を使う物流は考えられませんが、伊賀地域の観光で水に関するコンテンツは少ないので、熊野川の三反帆(さんだんぼ)のように高瀬舟的なものを甦らせて観光に使えるといいなと思います。

   淀川遡航終点碑の位置

【長田川通船の図(出典:「秘蔵の国(福永正三著)」↓】

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【淀川遡航終点碑↓】

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 次のYouTube動画は、この終点碑を中心に、高石垣で知られる上野城、滋賀県との境に聳える高旗山、天正伊賀の乱で伊賀勢が最後に立て籠もった比自山などを撮影したものです。

【終点碑の地点から望む上野城↓】

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【終点碑の地点から望む高旗山↓】

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2020年6月14日 (日)

人間国宝 一龍斎貞水さんによる講談「荒木又右衛門」

 YouTubeにこんなすごい動画がアップロードされていました。

 「講談・湯島道場」其の二/荒木又右衛門

 (残念ながら今は非公開になっています)

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 人間国宝 一龍斎貞水さんによる講談で、「伊賀の水月 荒木又右衛門」のうち「戸塚焼餅坂 鷲津七兵衛との出会い」の部分。

 桑名 七里の渡しで出会った池田藩 渡辺靭負(ゆきえ)一行とともに江戸へ向かった荒木又右衛門が、途中の戸塚において渡辺靭負に代わって鷲津七兵衛と対決するのが肝になるところです。

 

 冒頭の解説によると、こうした武芸物は前座の人による演目で、取り上げる武芸者によって講談の流派がわかるらしいです。たとえば、荒木又右衛門なら一龍斎、宮本武蔵なら神田、塚原卜伝なら宝井といったこと。いろいろ勉強させていただきました。

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2020年6月 5日 (金)

宮本武蔵に勝った荒木又右衛門(立川文庫・寛永御前試合)

 『剣法名誉侠客倚人鑑』という番付で、西大関の宮本武蔵の上を行く東大関の荒木又右衛門(あらきまたえもん)。「荒木の前に荒木なく、荒木の後に荒木なし」と謳われる傑出した剣士です。それほどまでに庶民の人気を集めていたのを示すのが、立川文庫(たつかわぶんこ)「寛永御前試合」で描かれている宮本武蔵との一戦。講談の上でのことではありますが、宮本武蔵が生涯で勝てなかったのはこの試合だけとされています。

 この講談本におけるこの試合の部分を抜き出すと、次のようになります。

「第三番に立ちいでたるは、神面(しんめん)二刀流の元祖 宮本武蔵、及び荒木又右衛門吉村との試合、だんだん勝負は面白くなってくる。

ところで、この武蔵と又右衛門との履歴については、ずいぶん面白いところがたくさんあるが、立川文庫第四編において、伊賀水月荒木又右衛門、同第九編に、豪傑宮本武蔵と題し、詳細弁じつくしてあるから、ここには両人の伝記を略することにする。

両豪傑は悠然として庭前へ進み出る。将軍始め一同は、これぞ当日の書入れ勝負と、固唾を呑んで肩肘いからせ、瞬きもせず見物する。両人はかねて懇意の間柄ゆえ、丁寧に会釈をなし、荒木又右衛門は二尺三寸の木剣(ぼっけん)、宮本武蔵は例の右剣左剣を携え、行司の軍配引くとともに、東西に立ち分かれ、荒木は中段、武蔵は右剣左剣を天地に構え、エイヤッと互いに睨み合ったるその有様、どこに一点鵜の毛で突いたほどの隙もない。

何しろ天下無双の豪傑同士、エイヤッと気合を掛け合うことおよそ一時ばかり、双方呼吸を計っていたが、かくては果てじと荒木又右衛門、エイと激しく打ち込む木剣、武蔵は右剣でガッキと受け留め、左剣は早くも又右衛門の小手をねらって打ち掛かる、又右衛門もさるもの、ハッシと打ち払い、打てば開き開けば付け入り、千変万化虚に実に、荒木に鬼神の勢いあれば、宮本は又摩利支天を示し、その早きこと電光石火、互いに負けず劣らず、ここを先途と闘ったが、今しも又右衛門がエイと大喝諸共に、打ち込んだる鋭き太刀先き、武蔵は十字にカッキと受けたが、あまり打ち込みようが激しかったものだから、図らず十字の構えが破れ、右剣を思わず打ち落とした、シテ遣ったりと又右衛門、畳み掛けて斬りこむ勢い、宮本武蔵はしまったりと、一足後に飛びすさり、左剣を右手に持ち替えるが早いか、カッキと又右衛門の太刀を受け留めておいて、(武蔵)「参った…」、又右衛門も後へ飛び下がり、(又右衛門)「イヤ、怪我の功名、とても我々の及ぶところにあらず、」(武蔵)「イヤイヤ、恐れ入ったるお腕前、それがしの及ぶところにあらず」と、互いに挨拶をする。

見物はただもう酔えるがごとく、ワアワアと喝采の声は殿中もために揺るがんばかり。これは荒木又右衛門が無論十字の構えを破ったから勝ちになったのではあるが、両刀あればこそ武蔵も豪(えら)いが、一本同士になっては到底荒木には敵わない、しかし武蔵もナカナカ豪いところがある、咄嗟の場所にでも、武術のたしなみを忘れず左剣を右手に持ち替えて受け留めたという、余人ではできない働きであると、小野治郎右衛門は将軍 家光公の前に出で説明して、居る一同も成程と合点して、「さすがは天下名代の豪傑同士、見て居ても骨が折れる」と、感ぜぬものは一人もなかった。」

 当時、荒木又右衛門は30歳台半ば、宮本は50歳前後で、歳は少し離れていますが、この一節を読んで、二人がよきライバルであったことが窺われる名勝負だと感じます。


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2020年5月12日 (火)

疫病除けのご利益がある大鳥神社(滋賀県甲賀市)

 近頃 新型コロナウイルスの影響で気分が落ち込んでいるので、先日神頼みをしようと滋賀県甲賀市鳥居野にある大鳥(おおとり)神社へ行ってきました。

 疫病除けの神様として親しまれているというのが、お参りの理由です。

 この神社の由緒には、元慶六年(882年)平安初期に伊賀国阿拝郡河合郷篠山嶽より大原中に勧請※され、その後現在地に移し祀られたと記されており、伊賀市馬場にある陽夫多(やぶた)神社と関係が深いものと思われます。

   ※勧請(かんじょう):神仏の来臨を請うこと

 大鳥神社の近くはよく通っているものの、訪れたのは初めてのことで、立派な拝殿や京都八坂神社のものに似た朱塗りの楼門に驚かされました。

 今の時期は訪ねる人も少ないらしく、静かな参道を辿って参拝することで、気持ちを落ち着けることができたように思います。


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2020年4月29日 (水)

世阿弥の夢跡一紙(むせきいっし)

 能の大成者 世阿弥(ぜあみ)の息子である観世元雅(善春)は、37歳の若さで伊勢の安濃津(今の津市)で北朝方の刺客に殺害されました。この「夢跡一紙」は息子の元雅を失ったことに加えて、観世座再建の望みを断たれた世阿弥の深い悲しみを表現した名文であると言われています。

 「夢跡一紙」の碑は、伊賀市守田町の八幡神社(はちまんじんじゃ)境内にあり、説明文によると、観阿弥、世阿弥が、この八幡神社の神奈備の丘で生まれているということ、また、その末裔にあたる方が八幡神社の氏子総代であるという縁から、平成9年(1997年)に造られたものだそうです。

 私は、名阪国道(国道25号自動車専用道路)上野インターチェンジのすぐ近くにこんな立派な神社があることを長らく知りませんでした。初めて訪れたとき、「夢跡一紙」という素晴らしい文の碑があって感動したものです。普段は訪れる人も少ないところであり、それがむしろ観阿弥、世阿弥の時代に思いを馳せるのにはよいのかもしれません。

 この八幡神社から名阪国道を越えた北西方向にある世阿弥公園内に、世阿弥が楠木正成の血族であることを示す「世阿弥の母像」が設置されています。

 八幡神社駐車場の位置(上野インターチェンジから国道368号を名張方面へ向かい、そば処御嶽を過ぎてすぐを左折、Uターンするような感じで北へ向かい、九品寺、八幡神社の石段を過ぎてすぐを右へ)

【夢跡一紙の碑↓】

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【説明文↓】

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【八幡神社↓】

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【八幡神社の参道↓】

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